7月19日と8月15日の2回に渡り今年生誕100年を迎えた作家島尾敏雄と妻ミホにスポットをあてる。二人を描いた映画「海辺の生と死」が公開されるなど、島尾の作品は注目を集めているが、今回は島尾敏雄が特攻隊発動の指令を受け即時待機の態勢に入った8月13日を、ミホの視点で辿りました。
「戦時下の恋」死を覚悟した島尾ミホの8月13日
今年で戦後72年を迎えます。戦争を語り継ぐ人たちが限りなくゼロに近づいていきます。太平洋戦争末期、鹿児島からも多くの若者たちが特攻隊とし飛び立っていきました。1944年の11月、奄美大島に特攻隊が進出しました。木製の船に爆薬を積み
敵艦に体当たりする「第18震洋隊」です。隊長は島尾敏雄。後に「死の棘」「出発は遂に訪れず」など戦後文学で金字塔をうちたてました。前編のきょうは「戦時下の恋」です。
【震洋部隊】
奄美大島本島の南にある入り江の多い加計呂麻島。海上タクシーを使い細長い入り江になっている呑之浦に入ると横穴が見えます。昭和19年に掘られた長さ30mほどの穴です。
太平洋戦争末期、日本軍は戦局が悪化するなか最後の戦術として搭乗員ごと敵の船に体当たりする特攻隊を編成しました。
昭和19年11月、加計呂麻島の呑之浦に船で特攻する部隊がやって来ました。第18震洋隊186人。隊長は島尾敏雄です。
敗色の色濃い日本最後の切り札として極秘に開発された特攻艇は「震洋」と名付けられました。長さ5m余りのベニア板製ボードに250kgの爆弾を積んで敵艦に体当たりしようという物でした。
【ミホとの出会い】
部隊が駐屯した押角集落の小学校教諭ミホと島尾隊長は手紙を機に愛を育んでいきました。集落では、ミホが作った「島尾隊長の唄」が流行っていました。
【特攻出撃命令】
昭和20年、戦局はますます悪化、鹿児島本土や加計呂麻島も空襲を何回も受ける中、特攻の日が近いと皆察知していました。
8月13日夕方、部隊に特攻出撃命令が出され即時待機状態に入りました。それは最愛の人の死を意味します。島尾隊長がミホさん宛てた手紙には「お前は余の最愛無二の妻なり…」と書かれていました。
ミホさんは母の形見の喪服をつけ、短剣を握りしめ、特攻基地まで辿りつきました。
「征きませば 加那が形見の短剣で 吾がいのち綱 絶たんぞとおもふ」ミホさんも自決する覚悟でいました。
しかし、なかなか出撃できない隊員たちはいらだっていました。そして迎えた8月15日、発進命令は遂に下りませんでした。
【呑之浦を訪れる】
監督の越川道夫さんは、島尾敏雄らが眠る呑之浦を訪れました。特攻基地があったことを記念して特攻艇「震洋」のレプリカがあります。島尾敏雄文学碑の穴の奥には、特攻隊の隊長室がありました。
【映画「浜辺の生と死」】
満島ひかりがミホさん役で演じる映画「浜辺の生と死」は、8月19日から鹿児島ミッテ10で公開。是非ご覧ください。