東日本大震災から、あす3月11日で12年。
あの日のことを次の世代に語り継ぐために、私たちができることとは。
当たり前の日常を一瞬で奪った、東日本大震災
2011年3月11日。
午後2時46分。
東北地方・三陸沖を震源とする、最大震度7の地震が発生しました。
陸を駆けあがった津波の高さは、最大で40メートルを超えました。
死者行方不明者は、震災関連死も合わせて2万2212人。
一瞬で日常が奪われました。
あの日の記憶を次の世代に語り継いでいくために
若い世代に、東日本大震災について聞いてみました。
「世代じゃないからイメージできない」
「体験していないから分からない」
東日本大震災を知らない世代は年々増えています。
あの日の記憶を次の世代に語り継いでいくために、活動している方をスタジオにお呼びしました。
山内さんは、5年にわたって鹿児島市の防災を担当し、大雨などの災害対応や、避難所のとりまとめ、避難訓練などの業務に携わっていました。
山内さんは、東日本大震災の被災地を10回以上訪れています。
(山内さん)
かつて家があり、人々の暮らしが一瞬にして奪われたことに唖然としました。
復興にむかって姿は変わっていっているが、まだ悲しみは癒えてない。
(山内さん)
防災に携わることになったのは、8.6水害の時、目の前で幼い子供の命を救ってあげられなかった悔しさがあったから。
山内さんは、自分の経験を子どもたちに語り継ごうと、活動を続けています。
今月7日。
山内さんは、自身の母校の伊敷中学校で防災教室を開きました。
集まったのは、中学3年生およそ250人です。
震災当時は2~3歳でした。
震災を知り、命を守る
この日の防災教室で、震災の経験を話してくれる人がいました。
岩手県釜石市出身の菊池のどかさん、27歳です。
被災当時、生徒たちと同じ中学3年生でした。
震災による釜石市の死者は、1064人。
甚大な被害でした。
(菊池さん)
とにかく死にたくないと思って、山の上まで走った。
(菊池さん)
朝、通った場所が、帰るころには通ることができなくなった。
3月11日、突然変わってしまった。
日頃から、学校で津波に対する訓練をしていた菊池さんは、周りと声をかけあいながらいち早く高台へ逃げ、助かりました。
しかし、後悔していることがあります。
(菊池さん)
逃げたくても逃げられなかったり、足手まといになるんじゃないかと逃げるのをためらう人たちがいる。
ちゃんと逃げられる設備や方法を、考えてあげられたらよかった。
菊池さんは、生徒ひとりひとりの質問に丁寧に答えました。
Q.災害にあったとき、慌てない方法はありますか?
(菊池さん)
死んでしまうかもしれないという怖さは感じると思うけれどもやってみるという行動が大切。
怖がりすぎず、しっかり知っておくことが大事。
Q.避難所であったほうが良いものは?
(菊池さん)
東日本大震災の時は、低体温症といって寒さで亡くなる人が多くいました。
季節で備えるものは違ってくると思います。
「震災を知り、命を守る」
あの日を生き、そして今を生きる菊池さんの思いです。
永遠に語り継いでいかなければならない
(菊池さん)
「震災の記憶がない」とか「経験してない」というのは、なかなか実感がわかないのが正直あると思います。
(菊池さん)
「こういった大きい災害があったんだよ」って。
「それに対して、どうやって備えていったらいいのか」っていうのは、永遠に語り継いでいかなければならない。