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東日本大震災から13年

当時多くの人が避難した福島市の体育館

みなさんこんにちは。
新年度がスタートしましたね。

私は引き続き「KTSライブニュース」の木曜・金曜のキャスターを担当します。
ニュースキャスターは11年目、上片平さんとのコンビは3年目。

自分の言葉に嘘がない、皆さんに信頼してもらえるキャスターになれるよう
日々精進します。
そして私は、取材先を含め、出会った方とお話をするのが大好きなので、
新年度もたくさんお話ししましょう。
皆さん引き続き、よろしくお願いします。

 

当時の避難所・あづま総合体育館の中のコーナー

話が変わりますが・・・。
先月11日は、東日本大震災から13年でした。

私は取材で初めて福島県を訪れました。
当時何度も夜の余震の恐怖におびえた経験などから
「夜の避難訓練」の重要性を伝えている新聞社の男性を取材しました。

その男性は、動画投稿サイト・YouTubeで「夜の避難訓練」を発信しています。
それは世界中の誰もがアクセスできるから。
そして「福島県は被災県だけど、先頭にたって防災を伝える防災県にならないといけない。13年が経ち、震災を知らない子どもが増えている。福島に住んでいて震災の記憶が風化しているとも感じる。だからこそ、伝えられる人が伝え続けないといけない」と話してくれました。


私にもまだできることがあると、思いました。
 

南相馬市の沿岸部あるモニュメント

今回は1泊2日の弾丸取材だったのですが、
どうしても訪れたい場所がありました。
その場所は、福島県で最も多い犠牲者を出した南相馬市です。

とてつもなく高い波が人々を襲いました。
沿岸部には、その事実を忘れないようにと、
犠牲になった人の名前が刻まれた記念碑と、到達した津波の高さ、11.1mと表記されたモニュメントが設置されていました。

まだ寒い東北の3月。
津波の犠牲になった方々は、どんなにか、怖くて、暗くて、寒くて、孤独だったんだろう。
その場所でそんなことばかり考えました。

撮影をしていて出会った、南相馬市小高区で鮮魚店を営む男性は、さみしそうな声でこう話してくれました。

「ここは一番栄えていた商店街で、たくさんお店があった。
でも、13年前に全てが変わった。多くの家が崩れ、当時福島原発の避難区域となったこの場所には帰ってこない人も多い。隣近所の付き合いも薄くなった。今願うのは、子どもたちの将来が明るくあることだけ」


震災から13年経った福島県を歩いてみて感じたことは、
人の心も含めて、13年経って解決されたこと、13年経っても解決されないことがたくさあるということです。

大きな災害は、いつどこで発生するか分かりません。
だから、今できる備えをして欲しい。
通勤通学の途中、スマートフォンを見ずに、
周りの景色に目を向けてください。
「海抜〇m」と書かれた看板や、「津波避難ビル」を知らせる看板など、たくさんあります。それだけでも“防災”になります。

防災は「頑張るぞ!準備するぞ!」と意気込むと疲れてしまうので、
日常の延長線上に、少しずつ取り入れてみてくださいね。