鹿児島大空襲の体験者が語る”戦争” あす81回目の終戦の日
2026年8月14日(金) 18:20
8月15日は終戦の日です。
太平洋戦争末期、鹿児島市では度重なる空襲で3000人以上が命を落としました。
あれから81年、空襲を体験した人は今何を思うのか?
当時を知る2人の男性に話を聞き「戦争」を振り返ります。
鹿児島市堀江町。
国生次男さん(90)
「ここが病院の玄関で、ここは(防空壕の)入り口。ここが防空壕。家にも焼夷弾が3発落ちて燃え上がって逃げた」
国生次男さん、90歳。
1945年6月17日、2300人以上が一夜で命を落とした鹿児島大空襲の体験者です。
国生さんは当時9歳でした。
Q.死ぬかもしれない怖さは?
「逃げるのに精一杯で、それどころではなかった」
天文館のすぐ近く、国生さんの家から歩いて1分ほどの所には、鹿児島空襲の慰霊碑があります。
Q.国生さんの知り合いで亡くなった人はいた?
「たくさんいる。ほとんどが焼け死んだ」
逃げるのに精一杯で、恐怖すら覚えていない。
それが国生さんの戦争でした。
この慰霊碑は2004年に建立されました。
中心メンバーとなったのは、関東鹿児島県人会の幹事長などを務めた春成幸男さんです。
春成幸男さん(2004年)
「(空襲の事実を)風化させないように残してあげたい」
春成さんは2025年9月、百歳で亡くなりました。
鹿児島テレビはその2カ月前に話を聞いていました。
軍への志願を決めた春成さんが家族に別れを告げるため東京から帰省すると、疎開していた兄弟たちも春成さんに会うため鹿児島市に戻ってきました。
その夜、空襲が起きたのです。
両親、妹たち、弟たち。
春成さんを除く家族7人全員が命を落としました。
春成さん(2025年)
「私が東京から帰っていなければ家族は疎開していたのに。その思いをずっと引きずって100歳になった」
亡くなった春成さんの弟・敏明さん。
生前を知る男性が姶良市に住んでいます。
野口達彦さん、93歳。
鹿児島市の小学校で敏明さんとクラスメイトでした。
鹿児島大空襲を体験
「(敏明さんは)相撲がすごく強かった。亡くなったことは(空襲の)明くる日に知った。『春成君(敏明さん)が防空壕の中で死んでいたよ』と。(同級生の死を悼む)気持ちではなくて、自分は助かったな、だけです」
Q.友達が亡くなったことを悲しむ余裕は?
「なかったです」
友人の突然の死が特別なことではなかったあの頃。
空襲の時、野口さんと家族は鹿児島市役所に逃げ込みました。
野口達彦さん
「(鹿児島市役所は)石造りですから。(焼夷弾では)この建物は燃えない」
しかし、市役所の外には地獄のような光景が広がっていました。
野口達彦さん
「『助けてー』と叫びながら、ここでバタバタ倒れていた。まるで生き地獄でした」
Q.助ける手段は?
「ありません。焼夷弾が落ちてくるんです。救いようがないんですよ」
自分が生き延びることにせいいっぱいで助けてあげられない。
そして、人の死を悲しむ感情すら失う。
野口達彦さん
「当たり前でした。死ぬ人を見ることは」
太平洋戦争末期、鹿児島市では度重なる空襲で3000人以上が命を落としました。
あれから81年、空襲を体験した人は今何を思うのか?
当時を知る2人の男性に話を聞き「戦争」を振り返ります。
鹿児島市堀江町。
国生次男さん(90)
「ここが病院の玄関で、ここは(防空壕の)入り口。ここが防空壕。家にも焼夷弾が3発落ちて燃え上がって逃げた」
国生次男さん、90歳。
1945年6月17日、2300人以上が一夜で命を落とした鹿児島大空襲の体験者です。
国生さんは当時9歳でした。
Q.死ぬかもしれない怖さは?
「逃げるのに精一杯で、それどころではなかった」
天文館のすぐ近く、国生さんの家から歩いて1分ほどの所には、鹿児島空襲の慰霊碑があります。
Q.国生さんの知り合いで亡くなった人はいた?
「たくさんいる。ほとんどが焼け死んだ」
逃げるのに精一杯で、恐怖すら覚えていない。
それが国生さんの戦争でした。
この慰霊碑は2004年に建立されました。
中心メンバーとなったのは、関東鹿児島県人会の幹事長などを務めた春成幸男さんです。
春成幸男さん(2004年)
「(空襲の事実を)風化させないように残してあげたい」
春成さんは2025年9月、百歳で亡くなりました。
鹿児島テレビはその2カ月前に話を聞いていました。
軍への志願を決めた春成さんが家族に別れを告げるため東京から帰省すると、疎開していた兄弟たちも春成さんに会うため鹿児島市に戻ってきました。
その夜、空襲が起きたのです。
両親、妹たち、弟たち。
春成さんを除く家族7人全員が命を落としました。
春成さん(2025年)
「私が東京から帰っていなければ家族は疎開していたのに。その思いをずっと引きずって100歳になった」
亡くなった春成さんの弟・敏明さん。
生前を知る男性が姶良市に住んでいます。
野口達彦さん、93歳。
鹿児島市の小学校で敏明さんとクラスメイトでした。
鹿児島大空襲を体験
「(敏明さんは)相撲がすごく強かった。亡くなったことは(空襲の)明くる日に知った。『春成君(敏明さん)が防空壕の中で死んでいたよ』と。(同級生の死を悼む)気持ちではなくて、自分は助かったな、だけです」
Q.友達が亡くなったことを悲しむ余裕は?
「なかったです」
友人の突然の死が特別なことではなかったあの頃。
空襲の時、野口さんと家族は鹿児島市役所に逃げ込みました。
野口達彦さん
「(鹿児島市役所は)石造りですから。(焼夷弾では)この建物は燃えない」
しかし、市役所の外には地獄のような光景が広がっていました。
野口達彦さん
「『助けてー』と叫びながら、ここでバタバタ倒れていた。まるで生き地獄でした」
Q.助ける手段は?
「ありません。焼夷弾が落ちてくるんです。救いようがないんですよ」
自分が生き延びることにせいいっぱいで助けてあげられない。
そして、人の死を悲しむ感情すら失う。
野口達彦さん
「当たり前でした。死ぬ人を見ることは」


















































































































