この夏、鹿児島に嬉しいニュースが飛び込んできました。
って、一体どこが?と思っている人も多いのでは?
今回世界文化遺産に登録されたのは、8県にまたがる23資産。
これら全部まとめて「明治日本の産業革命遺産」って言うのだそうです。
鹿児島で登録された場所といえば
森?川?石?
正直、見ただけでは世界文化遺産登録された理由が分からないというのも事実・・・
そこで勝手に決行!
『世界文化遺産 バスツアー』
この場所で何が行われていたのか?どうして世界遺産になったのか?
当時の薩摩藩の心意気を感じる旅へ出発します!
■ 反射炉跡
1842年、まだ徳川幕府が外国との貿易を禁じる“鎖国令”が続いていた時代。イギリスやフランスなどの欧米諸国が、アジア進出を果たしていました。
開国の志を抱き、明治維新の先駆をなした人物、薩摩藩第11代藩主、島津斉彬公は、アヘン戦争で清国が英国に敗戦した事を受け、大砲つくりをはじめました。
大砲作りに必要だったものが、この場所にあったと言われる“反射炉”です。
反射炉とは、燃焼室で木炭を燃やし、その熱を天井や壁に反射させて一か所に集め鉄を溶かして鋳型にはめ,大砲の砲身を造るものでした。
しかし、頼みはオランダの文献のみ。反射炉作りは難航。諦めそうな技術者たちに、斉彬公は力強く言ったのです。
「西洋人も人なり、薩摩人も人なり、西洋人にできて薩摩の人にできないことがあろうか?」
斉彬公の励ましに応え、およそ4年がかりで反射炉はできあがりました。
反射炉で使用した耐熱レンガには、薩摩焼の技術を。
カミソリの刃も通さないほど精密に組まれている石組みの技術もまた薩摩藩がもともと持っていたものでした。
その後、反射炉の周辺に様々な工場を作りました。これが集成館です。
なぜ集成館を作ったのかというと・・・
■ 寺山炭窯跡~関吉の疎水溝
斉彬公が導いた次なる場所は、仙巌園のとなりにある尚古集成館。かつては機械工場でした。当時の人は、この集成館を動かす燃料の製造にも力を注いでいました。
炭に適した木々に囲まれた、“寺山炭窯跡”。
鹿児島では、石炭がとれなかったため、質が高く火力の強い白炭をこの場所で作っていました。
そして動力には磯の背後にある山、吉野から水を引き、崖の落差で動力を生む水車を使っていました。それが、“関吉の疎水溝”。水をせき止めていた仕掛けの後が今も残っています。
世界的に認められた、斉彬公の志。それは・・・
国を守るには大砲をつくるのは必要だけれども、人々の生活を豊かにすること。そうすることで人々の和が生まれる。和が生まれると人がまとまりやすくなる、それが国を守る城壁となる そういう考え方の持ち主でした。
造船や華やかな薩摩焼、薩摩切子。これらもそういった斉彬公の考えのもと進められた集成館事業の一つでした。写真の研究にも力をいれていました。
日本の近代化を切望し数々の功績を残すも志半ばで斉彬死去。享年49歳。リーダーを失った集成館事業は大幅に縮小されました。
その後薩摩藩の実権を握ったのが斉彬の弟、島津久光。江戸から薩摩に帰る途中に通った、神奈川県の生麦村。その行列の前に現れたのが、英国人。怒った薩摩の武士たちは彼らを殺傷してしまいました。これが、生麦事件です。
1863年の6月。イギリス艦隊が錦江湾に姿を現しました。薩英戦争勃発です。
イギリスの最新式の大砲により集成館も城下町も炎上。薩摩藩も岸辺の大砲で応戦。両者に多くの被害をもたらしました。
薩英戦争をきっかけに西洋のとてつもない力を思い知った薩摩藩。外国に学び、もっと近代化を図らなければならないと強く感じました。
薩摩藩は薩英戦争の翌年、西洋の学問を学べる学校を作り、さらに翌年、イギリスに19名の若者たちを送り込みます。薩摩藩英国留学生です。鎖国をしていた日本において、見つかれば重罪。明日の命があるかも分からない旅の覚悟を決め、羽島の港から出発したのです。
■ 異人館
バスツアー最後の目的地「異人館」です。
薩摩藩の留学生たちがイギリスに派遣されてから2年後の1867年。日本初の洋式紡績工場が完成します。
一躍買ったのが、大和国出身の石河確太郎。彼は斉彬公から紡績を学び、薩摩藩にイギリスから最新の紡績機械を輸入するように訴えていました。その指導にあたるイギリス人技師たちを招き、その住まいとして作られたのが、異人館です。
イギリス人技師の契約期間は2~3年ではありましたが、元々独自の技術を持っていた薩摩の人々はたった1年で習得。短い滞在でしたが、イギリス人技師は多くの職人の指導をしました。その技術と知識は全国へここから広がっていきました。
薩摩の男たちの行動力、発想力、柔軟さ。それら全てが今の日本を作っていると言っても過言ではありません。
●ランチ
磯庭園の中にあるレストラン「桜華亭」でいただいたランチの中にも、薩摩藩ならではのものがありました。
さつまあげは東南アジアがルーツ。鎖国体制下でも薩摩藩が外国の文化に近かったことが分かります。
かるかんも、奄美の島々から黒砂糖が手に入りやすかったために生まれたものです。
そして、芋焼酎にも、斉彬公のお考えが。当時高価な米で作っていたものを、部品をつくるのにアルコールが必要ということで、鹿児島でよく取れるサツマイモでつくってみてはどうか?という事で、芋焼酎が誕生したそうです。
●スタジオアート
アーティスト:BUNDAI
●エンディングテーマ
曲名「渚アラモード」
アーティスト:Lamp