【終戦特集】27歳で戦死した南種子町出身の画学生 あるエピソードが映画化へ
2024年8月15日(木) 18:50
こちらは鹿児島・種子島出身の画学生で、太平洋戦争末期に27歳で戦死した日高安典さんの自画像です。
日高さんが残した絵のひとつに、あるエピソードがあり、現在そのエピソードをふまえた映画の制作準備が進められています。
8月15日は終戦の日。
戦争によって画家になる夢と、自らの命を断たれた日高安典さんの画学生としての時間、そして思いをたどります。
長野県上田市、無言館。
ここに展示・所蔵されている約700点の絵は太平洋戦争で戦死した画学生たちの作品です。
全国を回って戦没画学生の絵を集め、27年前に無言館を設立した窪島誠一郎さんはこれらの作品、そして戦死した画学生たちについてこう語ります。
無言館・窪島誠一郎館主
「戦地に向かうまでの残された時間を自分は何に費やすかと考えた時、『絵を描く』というただそのひとつのことしか思い浮かばなかったし、それを成し遂げた人たち。ひたむきに向かい合っていた時間があそこにある。絵は時間ですよ」
鹿児島県南種子町出身、日高安典さんの自画像です。
日高さんは終戦4カ月前の昭和20年4月、陸軍兵士としてフィリピンで戦死しました。
27歳でした。
その自画像の横には、一枚の裸婦像がかけられています。
この裸婦像にはあるエピソードがありました。
無言館・窪島誠一郎館主
「入り口近くに置いていた感想文ノートに『安典さん、ようやく会いにきました』とあり、全部で3行ぐらい書かれていました」
館内に置かれたノートに文章を記したのは、裸婦像のモデルを務めた女性でした。
無言館・窪島誠一郎館主
「『自分を真剣に見つめていたあの日のことを忘れていません』と書いてあった。あそこ(裸婦像)にあるのは日高さんとモデルとの間に流れていた時間。モデルの姿かたちではない」
窪島さんが語るエピソードに心を揺さぶられた人がいます。
映画監督・五藤利弘さん(55)
「悲しい物語だなと感じた」
映画監督・五藤利弘さん。
日高さんとモデルの女性を巡るこのエピソードの映画化を目指しています。
五藤利弘さん
「強い意志を持って描かれているように見えた。どうしてこの絵を描いている時にこういう表情になったのかな。それを考えながらその時の2人の心情を探り当てられたら」
現在の東京芸術大学の学生だった日高さんは、太平洋戦争が始まった昭和16年に繰り上げ卒業となり、翌年、徴兵されます。
日高さんの他の作品が保管されている無言館の収蔵庫を見せてもらいました。
徴兵を控えた日高さんが、卒業制作で描いたとされる自画像。
他の自画像にあった穏やかさや生気はうかがえません。
五藤さん
「希望とか見えなくなっているよう。目がうつろに感じる」
画学生だった日高さんはどのような日々を過ごしていたのか。
五藤さんは日高さんの心情に近づくため、日高さんが画学生時代に住んでいた東京・豊島区を訪れました。
当時の豊島区に詳しい学芸員の小林未央子さんが、日高さんの時代から今も残るアトリエ付きの賃貸住宅を紹介してくれました。
当時の画学生たちと、アトリエ付き賃貸住宅の写真です。
縦に長い窓が取り付けられ、そこから大きな絵を出し入れしていますが、この建物にもそれが残っていました。
学芸員 小林未央子さん
「絵を出すためだけの扉です。アトリエに特化した建物にある大きな特徴」
このようなアトリエ付き賃貸住宅が約150件建ち並んだ当時の豊島区は、「アトリエ村」、または多くの芸術家が活動したパリのモンパルナスになぞらえ、「池袋モンパルナス」とも呼ばれていました。
日高さんはここで、大好きな絵と向かい合える、濃密な時間を過ごしていました。
80年以上前に日高さんが歩いていたかもしれない道を歩きながら、五藤さんは日高さんの息遣いを感じ取ろうとしていました。
映画監督・五藤利弘さん
「アトリエ村ってどういう存在だったんですか?」
学芸員 小林未央子さん
「制作することに特化した、そのための空間。作る人たちにとっては大切な我が家ですね」
映画監督・五藤利弘さん
「日高さんがこの時代をどう感じたのかどう考えていたかを皆さんが思いを膨らませられるような作品(映画)にできたら」
無言館に展示されている日高さんの作品「種子島風景」です。
今から24年前、6歳年下の弟・稔典さんがこの絵について語った音声インタビューが残っています。
日高安典さんの弟・日高稔典さん(無言館ボイスライブラリーより)
「一緒に行って『ここはこうやって』『いや、ここを描こう』と時々歌っていた。絵を描きながら。母がおにぎりを作ってくれて、それを持って出るが『今日は飯食うのを忘れて、食わないで帰ってきた』と。描き始めたら飯を食うのを忘れるんでしょうね」
戦争は愛した場所で過ごす時間を、愛した人と触れ合う未来を、日高さんから奪いました。
故郷から遠く離れた戦場で、永遠の眠りにつく瞬間、日高さんの胸に去来した思いは何だったのか、誰にもわかりません。
ただ、日高さんが残した数々の絵は、今も無言館で言葉を発することなく、静かに存在し続けています。
映画の撮影は2025年スタートの予定です。
日高さんが残した絵のひとつに、あるエピソードがあり、現在そのエピソードをふまえた映画の制作準備が進められています。
8月15日は終戦の日。
戦争によって画家になる夢と、自らの命を断たれた日高安典さんの画学生としての時間、そして思いをたどります。
長野県上田市、無言館。
ここに展示・所蔵されている約700点の絵は太平洋戦争で戦死した画学生たちの作品です。
全国を回って戦没画学生の絵を集め、27年前に無言館を設立した窪島誠一郎さんはこれらの作品、そして戦死した画学生たちについてこう語ります。
無言館・窪島誠一郎館主
「戦地に向かうまでの残された時間を自分は何に費やすかと考えた時、『絵を描く』というただそのひとつのことしか思い浮かばなかったし、それを成し遂げた人たち。ひたむきに向かい合っていた時間があそこにある。絵は時間ですよ」
鹿児島県南種子町出身、日高安典さんの自画像です。
日高さんは終戦4カ月前の昭和20年4月、陸軍兵士としてフィリピンで戦死しました。
27歳でした。
その自画像の横には、一枚の裸婦像がかけられています。
この裸婦像にはあるエピソードがありました。
無言館・窪島誠一郎館主
「入り口近くに置いていた感想文ノートに『安典さん、ようやく会いにきました』とあり、全部で3行ぐらい書かれていました」
館内に置かれたノートに文章を記したのは、裸婦像のモデルを務めた女性でした。
無言館・窪島誠一郎館主
「『自分を真剣に見つめていたあの日のことを忘れていません』と書いてあった。あそこ(裸婦像)にあるのは日高さんとモデルとの間に流れていた時間。モデルの姿かたちではない」
窪島さんが語るエピソードに心を揺さぶられた人がいます。
映画監督・五藤利弘さん(55)
「悲しい物語だなと感じた」
映画監督・五藤利弘さん。
日高さんとモデルの女性を巡るこのエピソードの映画化を目指しています。
五藤利弘さん
「強い意志を持って描かれているように見えた。どうしてこの絵を描いている時にこういう表情になったのかな。それを考えながらその時の2人の心情を探り当てられたら」
現在の東京芸術大学の学生だった日高さんは、太平洋戦争が始まった昭和16年に繰り上げ卒業となり、翌年、徴兵されます。
日高さんの他の作品が保管されている無言館の収蔵庫を見せてもらいました。
徴兵を控えた日高さんが、卒業制作で描いたとされる自画像。
他の自画像にあった穏やかさや生気はうかがえません。
五藤さん
「希望とか見えなくなっているよう。目がうつろに感じる」
画学生だった日高さんはどのような日々を過ごしていたのか。
五藤さんは日高さんの心情に近づくため、日高さんが画学生時代に住んでいた東京・豊島区を訪れました。
当時の豊島区に詳しい学芸員の小林未央子さんが、日高さんの時代から今も残るアトリエ付きの賃貸住宅を紹介してくれました。
当時の画学生たちと、アトリエ付き賃貸住宅の写真です。
縦に長い窓が取り付けられ、そこから大きな絵を出し入れしていますが、この建物にもそれが残っていました。
学芸員 小林未央子さん
「絵を出すためだけの扉です。アトリエに特化した建物にある大きな特徴」
このようなアトリエ付き賃貸住宅が約150件建ち並んだ当時の豊島区は、「アトリエ村」、または多くの芸術家が活動したパリのモンパルナスになぞらえ、「池袋モンパルナス」とも呼ばれていました。
日高さんはここで、大好きな絵と向かい合える、濃密な時間を過ごしていました。
80年以上前に日高さんが歩いていたかもしれない道を歩きながら、五藤さんは日高さんの息遣いを感じ取ろうとしていました。
映画監督・五藤利弘さん
「アトリエ村ってどういう存在だったんですか?」
学芸員 小林未央子さん
「制作することに特化した、そのための空間。作る人たちにとっては大切な我が家ですね」
映画監督・五藤利弘さん
「日高さんがこの時代をどう感じたのかどう考えていたかを皆さんが思いを膨らませられるような作品(映画)にできたら」
無言館に展示されている日高さんの作品「種子島風景」です。
今から24年前、6歳年下の弟・稔典さんがこの絵について語った音声インタビューが残っています。
日高安典さんの弟・日高稔典さん(無言館ボイスライブラリーより)
「一緒に行って『ここはこうやって』『いや、ここを描こう』と時々歌っていた。絵を描きながら。母がおにぎりを作ってくれて、それを持って出るが『今日は飯食うのを忘れて、食わないで帰ってきた』と。描き始めたら飯を食うのを忘れるんでしょうね」
戦争は愛した場所で過ごす時間を、愛した人と触れ合う未来を、日高さんから奪いました。
故郷から遠く離れた戦場で、永遠の眠りにつく瞬間、日高さんの胸に去来した思いは何だったのか、誰にもわかりません。
ただ、日高さんが残した数々の絵は、今も無言館で言葉を発することなく、静かに存在し続けています。
映画の撮影は2025年スタートの予定です。